昭和41年06月08日 朝の御理解



 先日ある方が、あるお願いで参ってみえて、御祈念を頂かれた。御祈念中に頂かれたんですね。それには扇子を頂かれた。その扇子に、松竹梅の絵が書いてあったということです。それでその人の願いというのが、末広的にまぁおかげになるという、こういうおかげを頂けといういうなら、神様のま、お言葉とま、頂かなければならんと思うですね。松竹梅といやめでたいもの。扇子といや末広と言うてま、縁起の良いもの。末広のおかげを頂き本当に、松竹梅のようなおかげを頂かなければならんのですけれど。
 どんなに素晴らしい扇子であり、松竹梅の絵が描いてあるというても、なら肝心要の、その扇子の命と言うのは、要にあるのです。要が緩んでおったり、ね。要が壊れておったんでは、値打ちはありません。ですからその要のところを一つ、大事にしなければいけません。どんなに素晴らしい修行が出来たといっても、どんなに素晴らしい御用が出来たと言うても、ね。その人の肝心要のところが、崩れておったり緩んでおったりしたんでは、もうそれは値打ちはないです。ね。
 皆さんこう言う様な体験はないですか。もうそれこそ散らかるだけ散らかった所。もう汚れるだけ汚れておる。さぁここをお掃除しなければならない。さぁどこから手を付けてよいやら分からんち言う。そういう体験はないでしょうか。ね。もうこげん広かとこばこげん沢山、こげん汚れとる所を、どこから手をつけていく様子もなか。私は大体信心する人達がですね。さぁ磨き改まれと言われるけれど、どこから磨いてよいやら、どこから改まったら良いやら分からんという人達が、沢山ありはせんかと思うですね。
 ただ聞くばっかり、なぜかと言うとね、あまりにもその人が、心の中が汚れており乱れており、緩んでおるからじゃなかろうかと思うです、ね。ですからもう万遍繰り返して御理解頂いても同じです。呆然として突き立っておるようなものなんです。ね。ですから例えば、ほんなら私共がさぁ今日はいっちょ、本気でこしごしとほんなら、大掃除の一つもさせてもらうぞと、もうどんなに散らかっても、一つ畳からはぐってですね。
 もう全部外へ一遍出してしまって、そしてさぁここからやろうと言う様に、高いところから低いところへと言うように、順序一つそこに方針を立てて、そこから掃除を始めさせて貰うてから、なるほど大変ですけれども、掃きだしたり拭き上げられたり、そして一部屋一部屋、きちっと整頓が出来て、その後の気持ちと言うものはまた格別。ね。私はこの、格別のおかげを頂かせて貰うと言う、その格別のところへですね。私共の心の上に一つ、拝んでいかなければいけないと思う。もう本当にそんな人があるんですよ。
 大体私は、どこを改まったら良かでしょうかち。先生磨け磨けち言いなさるばってん、どこを何ば磨くとですかち。ね。自分の心のなかに、ね。じんあいしょうぎゃくいっちょうがなからないけん。ね。私共が朝に晩に朝に晩にじゃない、その毎日先ず浴場に参りましたら、お風呂に入ります。それでもやっぱり毎日垢が落ちるでしょう。ですからそこんところを一つ分からにゃいけん。毎日そのことが、その規則正しくなされていく時です。やっぱり、その垢のつかん気持ち。
 毎日整理整頓させて頂いて、お掃除をさせて頂いておるとです。もうどこからという事は、決まっておる。もう始められるとそこからもう、それこそ流れるように、スムーズに、お掃除が楽しいぐらいにその、流れ作業のように出来ていくものなんです。ね。それが、時々しかせん滅多にせん人は、もうどっからして良いじゃら分からん。京都辺りなんかの、大きいお寺さんなんかの、お掃除の事を書いた本を、ほんのちょっと読ませてもらったんですけれども。もう本当に流れるようだそうですね。
 流れるようにその、お掃除が出来ていくという事です。決して電気製品を使われん。電気掃除機じゃ駄目だち言うんです。やっぱり箒でありお雑巾であり、もうその箒の使い方から素晴らしい。お雑巾の使い方が素晴らしい。それでいて何時行っても、廊下は鏡のように光っておる。ね。畳なんかでも、朝と晩と二回拭かれるそうです。と言う様にその、お掃除のまぁ仕方が、色々書いてあったんですけれども、成程なぁとこう、わたしも思うたですね。そうなってくると、お掃除が楽しゅうなってくるわけです、ね。
 いやもうそのお掃除そのものが、一つのもう修行なのです。私共が本当にあの末広のおかげを頂きたい。松竹梅のようなおかげを受けたい。めでたいおかげを受けたい、ね。ところがです、ね。肝心要のところが狂っておりましては、もうその末広の値打ちはありません。ね。肝心要のところといやもう皆さんが、もう言わずもがなでしょうけれども、ね。そこんところをです、本気で一つここが肝心要のところだというところをです。それこそ肝心要のところがです。
 どこから手を付けて良いやら分らん位に、先ず乱れておる自分じゃなかろうかと言う事を、気付かせて頂いて、大掃除でもする時の様な気持ちで、本気でです。先ずどこから手を付けるかと言う所を、一つ分からせて貰って、それに本気で一つ取り組ませて頂かなければ、私は何時までたっても、信心が何年続けられても同じだと私は思うです。ね。もう朝に晩に、ね。今日もどうぞあなたのお心に叶う一日でありますように、ね。もうどんなに叶う一日でありますようにと、願ったところで思うたところでです。
 肝心要のところに取り組まなかったら駄目です。神様には清らかなものばかりを、お供えすることを、皆んなが考えてますけれどね。神様はねそれこそ清らかなものは、有り難く受けて下さるに違いはないですけれども、ね。それこそ清きところも汚きところも、隔てなくある神様であり、頼む心に隔てなく祈れと、おっしゃる神様であるのですから、ね。神様は私共の一番汚いもの、私共の一番まぁ乱れておるところ、汚れておるところをです。お供えさせて頂いても、また神様は喜んで下さる神様なんです。ね。
 ですから例えば、今日は、今日はせめてここのところを、お供えさせてもらう。まぁ一遍じゃ出来んでもです。先ず自分のおるこの、足元のこの一部屋だけは、今日はきちっと整頓させて頂こうと言う様なです。私はその信心のいわゆる、進め方と言うものを、体得させてもらい。そして例えばもう少しでも汚れたら、もう直ぐ箒を持たなければ、雑巾を持たなければと言う様な、そういう一つの習慣が出来る。それこそどんなに広いところでもです、ね。一家中のものが心を揃えて。
 汚さんように散らかさんようにだけではなくて、一緒にお掃除をさせてもらう。ちゃっと持ち場持ち場が決められて、流れるようにその、お掃除が出来ていくような雰囲気が、家庭の中にあると、その家はいつも整頓しておる。いつも綺麗である。誰かしよったと言った様なものじゃいかん。磨き改まれと御理解を頂いても、どこから手を付けて良いやら分からん様な事ではではいけませんから、ね。自分なもう本当にここだと、もう段々おかげ頂いておりますとですね。
 もう肝心要のここが分かるんです。出来んなかなか出来んけれども、その肝心要のところをきちっと、いつも握ってです。もうこれ以上汚しは出来んと言った様なものが頂けれる。そしていよいよ大掃除と言った様な時にはです、ね。本気ではまって、そこのところに取り組むことが出来る。皆んなが末広のおかげを頂きたい。けどもその末広を頂いても、肝心要のところが、緩んだり崩れておったんでは、まぁその末広の値打ちがないのですから。
   どうぞ。